シナリオライターをめざしていたころ
作曲を始めたのは、初めてバンドを組んだ16歳のころだったそうですね。
折坂:そうですね。RCサクセションやアークティック・モンキーズのコピーバンドをやっ ていて、そのあたりのバンドの雰囲気でオリジナルを作ったのが最初。そのバンドではド ラムを叩いていて、ヴォーカルの女の子が歌う曲を作っていました。
歌詞はどんな感じだったんですか。
折坂:馬鹿馬鹿しい歌詞でしたね(笑)。当時通っていたフリースクールではバンドのほかにもコントや演劇をやっていたんですけど、歌詞もそんなノリだったと思います。そのころは自分で歌いたいというよりも「オリジナルなものを作ってみたい」という気持ちのほうが強かった。変なDIY精神があったんでしょうね。オリジナルであれば、たとえ格好悪くてもやる意味があるんじゃないかと思っていました。
では、自分で歌うようになったきっかけは?
折坂:そのバンドではちょくちょく地元の沖縄料理屋さんでライヴをやってたんですけど、他のメンバーと集まるのがだんだん難しくなってきたんですね。それでドラムを少しやっていた友達と、新しいバンドを始めたんです。人前でちゃんと歌い出したのはそのバンドが最初。イースタンユースやくるり、ナンバーガールに影響受けたようなオリジナルをやっていました。あと、そのころから祭り囃子に関心を持つようになって、お囃子のリズムを自分のオリジナルに何とか入れ込もうとしていましたね。
地元(千葉県柏市)の夏祭りでねぶたに触れていたそうですね。その影響もあるんでしょうか。
折坂:ありましたね。「柏まつり」では毎年ねぶたが出るんですけど、フリースクールでもその一環として子供ねぶたを出していて、自分たちでねぶたを作ったり、跳人(註:ねぶたの運行に合わせて跳ねる参加者のこと)もやっていました。祭りの高揚感は自分の中に確かに刻み込まれていて、「あの感じを自分の音楽にも入れ込みたい」という気持ちは当時からありました。
そのバンドはどういう場所で活動していたんですか。
折坂:あくまでもフリースクールの中だけでした。お客さんもフリースクールの子たち。だから完全に内輪ですよね。バンドメンバーにはフリースクールのスタッフもいて、彼らにとっては仕事のひとつでもあったんですよね。そんな彼らを外まで連れ出してライヴをやるのはどうかとも思っていたし、外の人たちに見せるようなもんじゃないとも思っていました。
シナリオライターをめざしていたのは同時期?
折坂:そうですね。フリースクールの文化祭で演劇の台本を書いたことがきっかけでシナリオに興味を持ち始めて、表参道にあるシナリオセンターに通ってました。どっちかというと、モノにしたいと思っていたのはバンドよりもシナリオのほうだったかも。僕は人情物みたいなものを書いていました。
シナリオセンターで学んだことが歌詞の書き方に影響を及ぼしているところもあるんじゃないですか。
折坂:ドラマであれ映画であれ、シナリオってその状況を最終的に絵で表すじゃないですか。たとえば時間の経過を積み上がったタバコの吸い殻で表現するとか。そうした技術的なことは、歌詞を書くうえでも役立っていると思います。
初めての弾き語りライヴ
弾き語りを始めたのが2013年の夏ですよね。6月30日、三鷹のライヴハウス「おんがくのじかん」でやったのが、人前でやった初めての弾き語りライヴだったと。
折坂:厳密にいえば、その数年前にとある沖縄料理屋さんでひとりでやったこともあるんですけど、本格的にやったのは三鷹が初めてだったと思います。最初のバンドでヴォーカルをやっていた子がひとりでライヴ活動を始めたんですけど、僕も東京のライヴハウスでやってみたいという気持ちがあったので、先を越された感じがしたんですね。羨ましかったというか(笑)。それでひとりでライヴをやるために曲を作り始めた。『あけぼの』に入っている曲は、そうやって作り始めた曲が多かったんです。
「おんがくのじかん」での初ライヴのことは覚えてます?
折坂:すごく覚えてますね。オープンマイクのイヴェントだったんですけど、審査のためにデモ音源を送ることになって、サウンドクラウドにアップしていた「あけぼの」のリンクを送ったんです。そうしたら店主の菊池さんから「これ、やばいね」という返信が送られてきて。東京のライヴハウスに対して勝手にドライなイメージを持ってたんですけど、当日もいろんな人が来てくれたし、すごく歓迎してくれたんですよ。それまでフリースクールの狭い世界だけで音楽をやっていたので、すごく嬉しかった。
そのときの音源(「伊香保」)はこの間リリースされたライヴ盤『暁のわたし』にも収録されていますが、とても初めてのライヴとは思えないですよね。すでに「折坂悠太の世界」ができあがっている。
折坂:僕自身はもっとうまくできていると思っていたんですが、聴き返してみたらそうでもなかった(笑)。緊張してましたからね。
バンド時代のオリジナルは後期ナンバーガールのイメージがあったということですが、「伊香保」などごく初期のレパートリーには、バンド時代の痕跡がほとんどないですよね。現在の作風に繋がるこうした音楽性はどのように出てきたものなのでしょうか。
折坂:それまでフリースクールの中だけでやっていたので、ある意味ではガラパゴス的な歌い手だったと思うんですよ。しかも音楽的に影響を与えてくれる友人もいなかった。ひとりで模索するなかできっかけのひとつとなったのが、ボン・イヴェールの『For Emma, Forever Ago』(2008年)とアーケード・ファイアの『The Suburbs』(2010年)。それまで聴いてきたようなジャキジャキのロックじゃなくて、アコースティックな音に惹かれるようになってきたんです。「こういう表現だったら、たとえ自分ひとりでやっても成り立つんじゃないか」と考えていました。
YouTubeに上がっている映像を見ると、最初のライヴではスチール弦のギターも弾いてますよね。でも、以降はガットギターが中心になっていく。スチール弦のコードストロークではなく、ガットギターの指弾きだったからこそ、折坂さんの繊細な世界が確立されたところもあるんじゃないですか。
折坂:コードストロークでジャカジャカやってるだけだと飽きられるんじゃないかとは最初から思っていました。あと、福原希己江さんとか「おんがくのじかん」に出演していた人たちの影響もあったと思います。
自宅とフリースクールの往復のなかで
作り上げられた『あけぼの』
2013年の夏に弾き語りを始めて、翌年の11月には『あけぼの』がリリースされていますよね。
折坂:その間には実は紆余曲折ありました。最初は「おんがくのじかん」のレーベルから出そうという話をいただいて、何曲か録ったんですよ(註:『暁のわたし』にはそのとき録音した「あけぼの」「女坂」の2曲が収録されている)。でも、なかなかいいものが録れなくて、フリースクールで自分で録り直したんですよ。『あけぼの』に入っているのはそのときの音源です。
『あけぼの』は録音とミックスも折坂さんがやっていますが、録音はどんなふうに進めていったんですか。
折坂:フリースクールは夜10時まで子供たちがいるので、みんなが帰ってから録音していました。佳境の時期は翌日の朝までやってましたね。一気にやるというより、数か月かけてじっくり進めていった感じです。
今の折坂さんは『あけぼの』というアルバムをどう捉えています?
折坂:ここに来るまでの電車の中で久々に聴き返していたんですけど、いいアルバムだなと思って(笑)。
いいアルバムですよ。傑作だと思います(笑)。
折坂:「おんがくのじかん」の菊池さんには「全然音楽を聴いたことがない人が作ってる感じがする」と言われたことがあるんですけど、確かにそんな感じがありますよね。バンド時代はオルタナなり参照元が見え隠れしていたと思うんですけど、ひとりで始めたころは参照元をどう形にしていいのか分からなかった。バラバラに聴いていたものの影響が本人の無意識のうちに滲み出ていて、独特の音楽になっているんだと思いますね。
言葉の部分でいうと、「角部屋」や「窓」という曲に象徴されているように、『あけぼの』には折坂さんの自宅から世界を覗き見ているような感じがありますよね。狭い場所から世界を妄想しているような感覚。
折坂:「おんがくのじかん」でやり始めたことをきっかけとして少しずつ外の世界に足を踏み出していたけれど、やっている曲自体、それ以前に自宅とフリースクールの世界で書いていたものなので、今に比べると確かに視野はすごく狭かったと思います。あと、「窓」なんかは完全にシナリオ的な発想で書いていたと思うんだけど、「きゅびずむ」は言葉の質感に寄った抽象画ぽい歌で、いくつかの方向性が行ったり来たりしてる感じもありますよね。ただ、どちらの方向性であっても、書いている場所は家の中という。
「きゅびずむ」は現在でもライヴの重要なレパートリーとなっていますが、あらためて聴き返してみるとすごい曲ですよね。「暮れゆく太陽がきゅびずんで見える」なんて歌詞、そう簡単には出てこないと思う。
折坂:この曲では別々の地域で生まれた文化をコラージュみたいに張り合わせてみようと考えていたんですね。キュビズムという西洋絵画のムーブメントと自分の中のローカル感や日本ぽい言い回しを繋ぎ合わせてみよう、と。イメージとしては横尾忠則のコラージュみたいな感覚があったのかもしれない。そういうことは今でも意識にやってるんですけどね。
そうやって見ていくと、5曲それぞれに異なる手法がとられているんだけど、それを『あけぼの』というタイトルと折坂さん自身が手がけたジャケットがひとつにまとめている感じがします。
折坂:どうして『あけぼの』というタイトルにしたのかあまり覚えていないんですけど、おそらくシナリオ的な発想だったとは思います。あと、このときは対立する者同士が和解するという、雪解けのイメージがあったんです。「太陽が昇って、冷え切ったものが温められて溶け出す」というイメージ。あくまでも自分の中だけのもので誰にも伝えることはなかったけど、そこに「願い」みたいな感覚もあったのかもしれない。
『たむけ』に見え隠れする新しい季節の前触れ
次の『たむけ』が出たのが2016年の9月。あらためて聴き返してみると、あらゆる面で『あけぼの』と違うところがあって驚きました。
折坂:僕もそう思いました。『たむけ』は自分の思いよりも、手法に寄り始めたアルバムだと思う。2015年からのろしレコードの2人(松井文、夜久一)とやり始めて、彼らに日本のフォークや海外のフォークロアを教えてもらうようになったんですね。そのこともあって、歌は自分の所有物ではなく、すでに存在するところから切り取ってくるものと捉えるようになった。自分の思いよりも、目の前の風景をどう切り取ることができるのか、情景をどうやって描き出すことができるのか、そういう意識が芽生えてきたんだと思います。
「道」という曲には「寂しいところ/なんにもないところ/ゆけどゆけども/なんにもないところ」というフレーズが出てきますね。この曲に象徴されるように、のろしの2人と活動を始めたのにもかかわらず、『たむけ』にはむしろ孤立感が滲み出ているようなところがあります。
折坂:それはのろしのあの2人だったからということもあると思います。松井さんの歌ではたびたび「人との分かりあえなさ」が取り上げられていますけど、彼女からの影響もあった。弾き語りを始めたころは同じようなスタイルの弾き語りシンガーソングライターとやることが多かったけど、そういう人たちって「自分の中に持っているものは誰にも分かるはずがないよ」というスタンスがあって、自分もそこに立ったうえで、共感できる部分を模索していたと思います。
歌唱法も『あけぼの』とは変わってきていますよね。より身体全体を鳴らすようなものになっていて、「道」あたりにはヨーデルの影響も見え隠れします。
折坂:J-Popの中心にはカラオケ文化があると思うんですね。いかにピッチを正確に合わせていくか、リズムを合わせていくか。当然僕もそちらになってしまっていたんだけれど、『たむけ』のあたりからもう少し広く考えるようになったんです。
広く考える?
折坂:ピッチを正確に合わせていくというよりも、メロディーを太い筆でなぞっていくような感覚。J-Pop以前の歌謡曲や民謡の人ってそういうことをやっていたと思うんですけどね。他の歌い手と一緒にライブをやるようになって刺激を受けた部分は大きかったと思います。
当時の折坂さんがインスパイアされていた歌い手はどういう人たちだったんですか。
折坂:たとえば、鳩山浩二さん。鳩山メソッドという呼吸法を編み出している人で、僕も最近そのメソッドを元にボイトレしてます。あとは鈴木常吉さんやAZUMIさん。
鈴木常吉さんやAZUMIさんは、歌というよりも身体全体が鳴ってるような感じがしますよね。
折坂:そうそう。全然タイプは違うんですけど、青葉市子さんも種類としては近いところがあると思う。歌っているという行為が見えてくるのではなくて、「そこに歌がある」という現象が浮かび上がってくるんですよね。
あと、『たむけ』ではピアノの音色が作品全体の基調音にもなっていますよね。ピアノが入っていない曲でも、ピアノの音色が余韻として残っているような感じがする。
折坂:『たむけ』では自分でピアノを弾いてるんですけど、弾き始めてすぐに録音したので、いま聴き返してみると変な残響が残っているんですよね。ピアノって基本的に持ち運びできないじゃないですか。その意味では場所と結びついていて、響きのなかに地縛霊が宿っているような感じがある。このアルバムではそういうイメージを出したかったんですね。調律もろくにしてなかったけれど、確かにあのピアノの音ってスタジオのグランドピアノでは出せないものかもしれない。
『たむけ』では『あけぼの』に続いて折坂さん自身が録音とミックスをやっていますが、『こうした手法のひとつの到達点を見たところもあると思うんですね。実際、以降は新たな制作方法に取り組んでいくわけで、このアルバムにはフリースクールを拠点としていた時代の終わりと、新しい季節の予兆みたいなもの刻み込まれている気がします。
折坂:『たむけ』って「本当は人と演奏したいんだろうな」というアルバムですよね(笑)。実際、このアルバムのレコ発では初めてバンドでやらせてもらいましたし。最後の「馬市」を弾き語りにしたのは意図的だったんですよ。「自分のベースはここです」ということを示しておきたかった。
『暁のわたし』と、これからのわたし
7月には2013年から2019年までのライヴ音源や未発表音源をまとめた『暁のわたし』という作品もリリースされました。過去の音源と向き合ってみて、どんなことを感じましたか。
折坂:『たむけ』以降のアルバムではコンセプトをしっかり立て、その中で自分をどう見せていくか、かなりはっきりと意識してきたんですけど、コロナ禍に入って、そういうことがことごとく意味をなさなくなった気がしたんです。
コンセプトを立てて、自分を演出していくということが?
折坂:そうですね。そういうなかで過去のライヴ音源を聴き返していたんですけど、昔のものは「自分をこういうふうに見せたい」という作為が見えないものが多かったんです。そういえば、僕はもともとこんな感じだったんだよなと思って。それで、演奏もそうだけど、何気なく撮影したものや絵など、世に出すことを考えていなかったものばかりでひとつの作品を作るのはどうだろう?と思ったんですね。
音質の面でいえば、ひとつひとつの音源のクォリティーはバラバラだけど、どの音源にも音以上の情報が刻み込まれてますよね。それこそ会場の雰囲気や匂い、湿度みたいなものまで。
折坂:ただの個人的な記録として録っていたものもあるので、「これ、作品にしちゃっていいのかな」というクォリティーのものもあるんですよ。ライヴ盤を作るためにバッチリ録音したものだとそこに作為が生まれるけど、そういうものがまったくない。イ・ランと韓国で録ったものも本番じゃなくて、練習をボイスメモで録音したものなんです。
今後の活動についてはどう考えていますか。
折坂:ここ最近は地元から出てないし、あまり人とも会ってないという意味では、ちょうど『あけぼの』を作る前みたいな状況になってるんですよね。……変な話、僕は『あけぼの』みたいなアルバムをずっと作りたいと思ってきたところもあって。
それはどういう意味で?
折坂:あのときの温度感みたいなものを、今の体制でやったらどんなものになるか。そういうことをいつも考えているんです。結果的に全然違う作品になりましたけど、『平成』もそんなことを考えながら作っていましたし、結局、『あけぼの』に戻ってきちゃうんですよ。その意味では、ここ数作のコンセプチュアルな作り方ではなくて、自分の感覚で何かを作れるタイミングなのかもしれない。もうちょっと自由になれるんじゃないかなと思ってるんです。